昭和51年03月07日 朝の御理解
御理解 第18節
「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」
昨日朝倉郡の方から、お母さんが以前は熱心にお参りをしてきておりましたが、色んな事情があってお参りができない。それでお届けはもう電話でと言った様な事ですけれども、最近その娘さんが参ってくるようになった。今度高校にの受験のお願いの為にいまお参りをしてくるのですけれども、ん初めてお参りをしてきた時に、金光様の御信心はね、おかげを受けると言う事、またおかげを受けなければならないという、色々な問題を通して、人間の一番大切なものを分からせてもろうて。
その一番大切なものに向かって進む事だよという御理解を頂いたそうです、私忘れておった。昨日それをいうんです。それでその人間の一番大切なものとは、どんなものであろうかと、思うておりましたら、先日からお参りをさせて頂いたら丁度ここで、あの信徒会があっておって、もう最後に親先生のお話が始まった所にお参りをいたしました。そして、人間の一番大切なものとは、ね、私共人間氏子が、金光大神の世界に住む事だと言う事を、あらゆる角度からお話下さって。
はぁこれだと思うたら涙がぼろぼろ流れてしかたがなかったというて、昨日もここで泣くんです。私は親の信心ちゃ素晴らしいと思うですね、そんな大変な事があの簡単に分かろうとは思われなかったんですけれどね、あの色んなお願をする事を通しておかげを受けて行くと言う事は、そのおかげを通して人間の一番大切なものを、身に付けて行く事だよ、分からせて頂く事だよと、その事の一番大切な事とはどんな事だと思い続けてとった。その時丁度、信徒会の。
そりゃ信徒会があっておるとは思うて参って来たのじゃなかったけれども、丁度参り合わせた所が信徒会があって、最後の親先生のお話の所を頂いた。そして信心のギリギリ究極、金光教の信心のギリギリの所は、金光大神の世界に住む事だ。いうならあれもおかげであった、これもおかげであったという、それこそおかげの中に浸らせて貰い、そのおかげに感動の生活をさせて頂く事が、金光教の信心だと言う事が、お話を頂きながら分かりましたら涙がボロボロ流れたと。
だからそのそれから、昨日参って来てから、そんなお届けをいたします。有り難いね私そこを一つ愈々目当てにしておかげ頂いていかなければならないねと、まぁ言った事でございます。昨日は久留米の佐田さんの所の奥さんの、お父さん日田の方ですから、の十五年の式年祭でございました。もうあちらに信心がございませんから、生前なん何回かずっと、体が悪くてお参りになっておられました。お父さん。
でそんな関係もあって、こちらにお父さんの御霊を、をまっお預かりしておるわけです。それでまぁ佐田さんご一家で、その昨日式年のお祭りがございました。前日あん仏教で日田の方ではあったという事。まぁそこで仏教と金光教でする式の、そのまぁ違いとでも申しましょうか。そう言う様なものを、もう本当にお母さんがもういやというほど感じられたという事が、電話で丁度こちら出かけに、掛って来て実はこうやって坊ん様にしてもらうたけども、こうこうだったと。
今日はどんなにかお父さんが喜ぶ事じゃろう。どうぞよろしゅうお願いします。お参りが出来んのが残念だけれどもという、そのお電話があったという事です。もう本当にあの、思いというものはねいうなら家内の里。もうお父さんではあるけれども、家内の里のお父さんの、式年祭をあちらの恭造さんが中心になられてから、お母さん子供達に至るまで、皆お参りをして参りましておかげを頂いた。
まぁ御霊様のお祭りをさせて頂くたんべんに、何か新たな事が分らせてもらう。本当に愈々、あの御霊の働きと言う様な事が分かれば分かるほど、いよいよこの世にあるうちに本気で金光様の御信心を頂いておかなければいけないなという事でしたがね、まぁ例えまぁ例を、その私が頂きました一部の事をお話しますと、この世ではどんなに誤魔化し半分でも一生を終えて行く人が沢山あるち。この世ではいうなら誤魔化しがきくんだというのです、この世では。
けれどもねあの世いうならば魂の世界に入ったら、もうその誤魔化しが効かないんだと。ね。私は御神願に頂きますのに、始めあのなんというですかね、福岡の民謡であります、あの黒田節ですか。黒田節のような感じの踊りを、この槍を持ってそしてこう待っておる、まぁ素晴らしい姿です。それが段々その槍をもっておる、して後ろに鎧びつの様な物、重たそうなものを担いでおる。それで槍をその待っておるのじゃない、槍を杖について足はこうよろよろしておるような感じの所を頂いたんです。ね、
いうならばです、例えば踊りというかね、で例えば本当の事ではない事です。ね、いうならばきちっとなら踊ればいうならば、誤魔化しが効くのだけれども、あの世では黒田節の踊りどん踊っっとると言った様なものではならない。実際に自分の難儀なら難儀、めぐりならめぐりをかろうて、そしてその槍を杖に付いてよろよろしておるよな状態。それに丁度、お重箱に半分ぐらいの、この三角に綺麗に握ったおにぎりがある。そのおにぎりを供える所を頂いた。
まぁいうならば足がよろよろするより元気が出てない所をです、いうならばおにぎりを頂いて、御霊様が元気がでけた。元気が取り戻した。そしてまたいわゆる本当の所へ、本当の道へと、限りなく精進を続けて行く事である。その御霊様の昨日のお祭りは、いうならよろよろしておるよな状態の御霊様に、ね、そのご飯を差し上げたような働きであったという事を頂きましてね。もうあの世ではね、ごまかしという事はきかんのだと。もうしら真剣な、いうなら魂の世界というものは、ね。
いわゆる実力以外にはないのだと。この世ではなんぼでもごまかしがきくけれども、あの世では誤魔化しが効かない。そういういうなら厳しいですか。ね、厳然とした御霊の世界のようそうというものをです、分からせて頂く時に愈々持って私共がこの世においてです、本気で魂を清めておかなければならないなという事を痛感致します。ね、ならどうして、なら魂を清めて行くかと。何かそこに問題がある。願わなければ成らない様な事がある。ただ願うておかげを頂いたと言う事ではなくて。
その願う事の又は難儀を通してです、より本当な事を分からせてもろうて、いうなら人間の一番大切なものを目指して、一段一段心の状態が開けて来るおかげを頂いていけれるという、生き方を愈々身に付けなければならない。ね、いうならば何かがあるたんべんに、和賀心が神に向こうていくという生き方を身に付けなければならない。その難儀な問題をただ、お願をしておかげを頂くと言う事だけではいけない。
先日からそこの、中村徹美さんの事故の事で、色々お話聞いて頂いたが、ね、あぁいう、いうならば大変な事故にあったけれども、おかげを頂いてまぁいうならかすり傷というですか、まだちんがちんがして、まっそのお医者さんに毎日薬の付け替えにはいっとりますけれども、ね、もう本当に昨日その翌日でした。あの福岡の川上さんが、どなたかの車に乗せて頂いてから、あの徹っちゃんがおてた所ば、いっちょ見てこうかというて行ったっち。そしてもう私はそこの現場を見てから身震いが出たと言うてますよ。
こげん所に落ち込んで、どうして例えばあの位な事で済んだだろうかというのです。ね、そう言う所をですいうならば、もう無我夢中でそん自動車を梯子代わりに、上までその登って自動車の上でです、ね気が遠くなった様な、とにかく自動車がこうなっとるとの、登って上に登ろうと思うたけども、その自動車がこんど上にはまだ見上げるごとある。とても手掛りがないから、もうどうにも登る手立てがない。そのまま気が遠くなった。そしたらねその神様からね、この幣きり境にというお声を頂いて。
又はっとしてそのそれから先はどうして登ったか分からなかったといってます。ね、全然そこは山の中ですから、何も家もなにもないけども、直ぐ目の前になんか明かりが見える。そこに辿りついてから戸を叩いた、直ぐ出て来て下さった。そのまま自分は気がとうなったとこういう。まぁそこから愈々その、さぁ医者に連れていかじゃこて、とこう言うて(?)しておられるのを聞いて、また気が付いてあの、合楽にとにかく電話をかけてくださいと言う事になったんです。
そういう例えばまぁいうならば死ぬか生きるかと言った様なとこを通らせて頂きながらです、ならあの徹美さんの心の状態がどういう風に開けていっておるかと言う事です。ね、いうならお互いがです、様々な難儀とかお願いをしなければならない、そう言う様な事の場合には、それこそこの幣きり境にです、この難儀を境に一段と信心を進めてくれよと。教祖のいわゆる立教神伝の中にあるこれは一節です。
この幣きり境に肥えはえさしとめるとこう。ね、それこそ死んだと思うて、欲を放してと言う様な、厳しい神頼みと言う事になるのですけれども、神様が徹美さんに頼むようにして、こういうここで命を頂いたんだ。ね、この幣きり境に一段と信心を進めてくれよ、愈々生神金光大神の世界に住まわせて頂くという、その眼目へ向かってです進んでいってくれよというものを、もう日々強く感じて行く様になっておるです。ね、
そしてこう言う様な事を境にです、これこそ学院にでもいこうかという気持ちが起こってきておると言う事です。素晴らしいですね。信心とはそれなんですよ。皆さんが難儀のあるたんべんに金光様の先生になるちゅうならまた、多過ぎるでしょうばってんね。(笑い)ね、本当にその辺の神様の、いうなら御演出というか、ね、私はその時に今申しましたように、御演出というだけではなくて、それこそ徹美さんの場合は舞台装置までしてあったような感じだねと。ね、
そこに頂いておる事がです、もうありありと自分の心の中に、この幣きり境にどうあることが本当かと考えだしたわけです。まだいうならば来年、らい今年かね今年から高校に入らなければならんというまぁ少女です。がね色んな事お願をする。そして人間の一番本当な事大切なものを、分からせて頂く事が信心だよと。まず私はそこん所が分からなければいけないと思うです。
何故かと申しますと、昨日の霊祭を通してから、私は感じましたように、この世ではどんな誤魔化しでも効くのだけれども、あの世では絶対誤魔化しは効かないと言う事。ね、この世で信心の徳を受けて、あの世にも持っていけるという、いうなら金光大神を目指させて頂く、そのいうなら信心にだけは出ておらなければならないという事。ね、信心とはおかげを頂くと言う事でなくて、信心とは、ね、和賀心が神に向こうていくと言う事を、様々ないうならば事に出会いながらです。
いよいよ生神へ向かっての精進がなされて行く、それが人間の一番大切なものだと言う事であります。ね、御霊様のことからいうならば、そういう事実が分からせて頂いて、そして、お互い信心させて頂くものがです、ただなら我情我欲を満たして頂く事の為だけの信心であってはならないと言う事です。教祖の神様はそういうさまざまな過程を通って、ね、生神金光大神という御神格までも、いわゆる天地金乃神と同根と言われる様な所までも、お進みになられた。その金光様がです教祖様が。
皆もこの様なおかげが受けられるとおうせられてあるんです。ね、だから皆もこの様なおかげが頂かれるならと言う事はです、今日皆さんに聞いて頂いた様に、先ずね信心によって人間の一番大切な、ものをどう言う事かと言う事を分からせてもろうて。ね、そしてまぁ必ず問題が起らなければ頂けないというじゃないけれども、ね、事あるごとに私の信心が愈々ベターの信心になっていかなければならないと言う事。ね、そこに信心のいうならば。高度な喜びとでも申しますか。ね。信心を頂かなければ。
進めていかなければ分からない世界があるわけです。お互い何十年、何年信心させて頂いておるがどれほど、私共が金光様のいうならば世界に住み得ておるであろうか。事毎にその問題をです、ね、通してねあれもおかげ、いや現実のこれもおかげであると。おかげにしていかなければいけません。そのおかげにしていかなければならない、いうならば事柄やら問題をです、ね、ただ通りぬけたというだけではいけません。その所を大切にしていく。今日私金光様のお写真の前でご挨拶をさせて頂いておりましたら。
今日は愈々つぼみを大切にするぞと頂いたです。これは私に下さったんでしょうけれども愈々蕾を大切にするね、咲いた花だけを求めずにね、その咲いた花がね次々と頂いていける事の為に、いうなら堅い蕾を大切にする。いうならばいやだとかね、腹が立つとか損になるとかと言った様な問題もありましょう。ね。の問題そのものを、愈々大切にさせて頂くと言う事がです、その問題を通して人間の一番大切なものを目指しておる手掛り、目指す事の手がかりだと言う事になります。
今日はそういう意味で皆さんも。一つ愈々ね蕾を大切にして、で今日の御理解を、ね。もう一遍頂き直させて頂いて、今日聞いて頂きました、ね、人間の一番大切な物とは、ね。又は私共がです、この世ではどんなに、ごまかし半分でもやっていけるのだけれども、あの世では絶対誤魔化しは効かないと言う事。ね、その事実をこうして分からせて頂くのですから、ね、愈々自分の魂の清まりを願って信心させていただく。それを例えば今日の私が頂いた事から言うと。愈々蕾を大切にしていくと言う事に。
他ならないのです。矢張り皆さんの信心の上にもです、色んな問題があります。ね、その問題の度にですこの問題を境に一段と、進ませて頂く、進ませてまた頂いたという実感が出来る様になりますと、その問題がまたこえない有り難いものになる。生神への手掛りである事が、本当に分からせて頂いたら、この世は愈々楽しい、有り難いというて苦労がなくなるわけじゃない。修行がなくなるわけじゃないけれども、その苦労その修行そのものが愈々有り難いんだと言う事が分かって来る様になるんです。
どうぞ。